Wednesday, May 4, 2022

慣習の出現 - 現代ビジネス

「人間とは何か」。社会学者の大澤真幸氏がこの巨大な問いと格闘してきた連載『社会性の起原』。講談社のPR誌『本』に掲載されていましたが、85回からは場所を現代ビジネスに移し、さらに考察を重ねています(これまでの連載はこちらからご覧になれます)。

中心地採集狩猟

狩猟は単独ではできない。少なくとも、生きていくのに十分なほどの食料を狩猟によって得ようとすれば、協同の狩猟は必須である。道徳なるものが発生する源泉は、狩猟における協同が要請する個体間の相互依存にある。このような仮説を提起してきた。

ところで、現代の狩猟採集民の行動を見ると、獲物は、狩猟の現場ですぐに料理されたり、食べられたりするわけではないことがわかる。一般に中心地採集狩猟central-place foragingと呼ばれるやり方が採用されている。狩猟者たちは、食料として獲得した動物を――そしてまた採集された植物も――、集団(バンド、共同体)のメンバーと共有するために、集団が拠点としている中心地に持ち帰るのだ。この方法は、現生人類の集団において――つまりおよそ一五万年前のホモ・サピエンスの段階に――、十全なものとして確立したと考えられる。

現代の文化人類学者の観察の記録によると、中心地採集狩猟の具体的なやり方はかなり複雑で多様である。誰と、いつ、そしてどのように食料を共有するかについては、集団ごとに異なっている*1。一〇万年以上前のホモ・サピエンスが、現代の狩猟採集民と同じようにしていたかどうかはわからない。しかし、現代の狩猟採集民のすべての集団に共通していることがひとつだけあり、少なくともその点に関しては、一五万年前から継続していると考えてよいのではないか。その共通の一事とは、集団のすべてのメンバーが、食料を得るに値するとされている、ということだ*2

狩猟採集は、今述べたように協同の作業ではあるが、同一の集団の全員が参加しているわけではない。しかし、狩猟採集に参加しなかった者を含む全員に食料を得る権利がある。集団の中には、狩猟採集に、間接的にすら貢献できない者もいる。すなわち怠惰であったり、あるいは負傷等の理由で動けなかったりする構成員もいる。こうした者たちも食物の分配から排除されることはない。協同の狩猟採集に関与していないことを理由に、食料が得られない、ということは絶対にないのだ。

ここで決定的に重要なことは次の点にある。協同の作業に参加したパートナーたちが平等の「相応性deservingness」を有する――つまり協同活動の参加者の全員が平等な分配に値する――、という感覚であれば、以前からあった。それに加えて、集団(共同体)の全員――協同活動に直接には参加していない構成員をも含む全員――に対して、生きるに必要な最小限の相応性が認められているのだ。前者の感覚、つまり協同に貢献した者にだけ相応性があるという感覚を前提にした場合には、後者には、多くのフリーライダーが含まれることになる。が、今やそれは問題にされない。つまり彼らは「フリーライダー」としてカウントされてはいない。

何がこの転換を引き起こしたのか。前回まで論じてきたことが回答になる。すなわち第三者の審級の間身体的連鎖からの離陸が、共同体の全員に、食料を得るに値する一定の相応性がある、という感覚をもたらしている。第三者の審級は最初、協同の現場、つまりパートナーたちの間の二人称の関係性に密着している。初期人類においては、協同が生きられた実感である限りにおいて、第三者の審級は機能していた。第三者の審級の視点を媒介にしたとき、協同の狩猟採集に参加しているメンバーが、平等に、一定の価値を有するものとして承認される。この承認は、協同の作業に(平等に)貢献しているということの認定と等しいことになる。

だが、前回述べたような機制を経由して、第三者の審級が協同の現場から独立に存在するに至ったらどうなるのか。共同体のメンバーたちが、協同の現場(間身体的連鎖)から離陸したかたちで第三者の審級の存在を想定するとしたらどうなるのか。このとき、その第三者の審級に帰せられる視点に対しては、共同体のメンバーの全員が、分配を受けるに値するものとして立ち現れるはずだ。食料を受け取るに値する「相応性」を有するかどうかは、協同の狩猟に直接的に参加し、貢献していたかということからは独立する。

今や、第三者の審級は、ともに具体的に働いている者たち――狩猟者たちや採集者たち――の関係に、ではなく、一定の規模をもった集団そのものに所属するようなかたちで存立している。このことが、現代の狩猟採集民の食料の分配行動の中では、誇張されて表現されている。たとえば、文化人類学者がしばしば驚きとともに伝えているところによると、食料の分配を受けたとき、彼らはめったに感謝のことばを言わない。われわれから見ると、それは、礼儀に反することに見える。しかし、おそらく、彼らにとっては、礼を言うことの方が礼儀に反している――つまり間違っている。どうしてか。

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