週刊少年ジャンプの看板作品のひとつ『僕のヒーローアカデミア』が最終章を迎えている。人々の大半が個性と呼ばれる特殊能力を有する世界で、ヒーローたちの活躍とヒーローを目指す少年少女たちの成長と絆を描く本作だが、最終章の幕開けは大変に不穏なものだった。
なにせ、世間の人々がヒーローを信用しなくなり、刑務所から脱獄した犯罪者たちが跋扈する世の中となってしまった。主人公のデクは敵に狙われているために、自ら雄英高校を去り、薄汚れた格好で人知れず活動をすることになった。日本中がさながら『バットマン』のゴッサムシティのような犯罪地帯となってしまっている。
この変化はヒーローに対する世間の信頼が崩れたことから生じている。『ヒロアカ』の敵(ヴィラン)たちは世論操作に長けていて、ただ強大な暴力をふるうだけではないところがある。
この最終章の入り方が示すのは、この作品は単純に敵対するヴィランを力でねじ伏せるだけでは終われないということだ。
『ヒロアカ』は謝罪会見のあるヒーロー漫画
『ヒロアカ』は、しばしばヒーローの謝罪会見のシーンが描かれる。これはヒーロー漫画では珍しいことだ。
テレビやネットのニュースでよく見かける謝罪会見とは何のために行われているのだろうか。被害や迷惑をかけた当事者に謝罪するためなら、直接謝罪すればいいだろうが、広く社会に向けて会見を開く場合は、「世間を騒がせたこと」に対してお詫びするためなのだろう。
では『ヒロアカ』世界でヒーローたちはどのように世間を騒がせたのか。それは、No1ヒーロー、エンデヴァーの家庭での過去とNo2ヒーロー、ホークスの父がヴィランであったという事実、そしてホークスがヴィラン連合のトゥワイスを背中から刺して殺したことが、荼毘の策略によって明るみにされたことだ。
会見に集まったメディアから世間の不安を代表したきつい質問が浴びせられる。人々はヒーローの潔白だと思いたがっていて、そうでないと不安だというのだ。
ヒーローが清廉潔白でないと不安なのはどうしてなのだろうか。そもそも、『ヒロアカ』世界におけるヒーローはグレーな領域から出現したものにもかかわらず、「シロ」であることを求められてしまっている。最初は自警団(ヴィジランテ)として法に頼らずに勝手に悪と戦いだしていたものが、いつしか大きな信頼を勝ち取るようになり、国が後からその活動を保証するようになったのがヒーローと定義されている。
元々はグレーな存在だったヒーローが、世間から認められていくに従い、「シロ」であることを求められるようになる。昨今の有名人に対して、異様に清廉潔白さを求める風潮と似ているかもしれない。昔、芸能人はどこか怪しげな部分があるというのが世間の共通認識だったものが、いつしかそれが変化していた。
そのような風潮によって、ヒーローたちはがんじがらめになって不自由な存在となってしまったように見える。そういう状況そのものがヴィラン側の言うことに説得力を与えてしまっている。個性を尊重するといっても、結局のところは体制側に都合のいい管理社会であり、自由などないのだと。
そんな世の中を維持しようとするヒーローは間違っているのでは。そういう気持ちになってもおかしくないような展開を容赦なく入れてくる本作は、見事に現代社会を反映している。
「”個性”だなんだと個人主義を謳っていても、結局管理社会。合わない個は排斥するだけ」と言うオールフォーワンの言葉は、作品世界にだけ向けられていない、現実を生きる読者をも誘惑しているのだ。
からの記事と詳細 ( 『僕のヒーローアカデミア』が問いかける現代の難題ーー不寛容な社会とどう向き合う? - リアルサウンド )
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