2024年4月28日 10:30
映画にとってファーストショットは重要なのである。無数にある選択肢の中から、作品に相応しいショットを熟考しなければならないからだ。それは、物語の導入に効果を及ぼす場合があれば、暗喩によって作品のテーマを宣言してみせるような場合もある。無数の選択肢が存在することは即ち、無数の可能性が存在するということでもあり、正解もまた“存在しない”のだと言える。ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞に輝いた濱口竜介監督の新作「悪は存在しない」(2024)は、地方の高原を舞台にグランピング場施設の建設をめぐって、都会の論理と地元住民の論理とが衝突するプロセスを描いた作品。本作では、森の木々が画面の下から上へと流れてゆく映像がファーストショットに選ばれている。その映像は、まるで闇の奥へと引き込まれてゆくかのような感覚を導き、ニーチェの「善悪の彼岸」に記された<深淵>に関する言葉を想起させるほど。
重要なのは、(誰かが見上げた)木々の幹と枝の間を抜ってゆくような映像が、森から出てゆくという感覚ではなく、森の奥へ奥へと入ってゆく感覚を観客に与えている点。不思議なことに、木々はフレームの中を流れてゆくだけで、方向性が示されているというわけではない。そういった思い込みや錯誤は、劇中のいくつかのショットにも指摘できるのである。例えば、公民館前のショット。駐車場で巧(大美賀均)が女性に声をかける姿を撮影したフィックスの映像は、ドアの開閉やエンジンをかける音に合わせて、突如としてカメラが(微妙に)揺れる。その刹那、映像は車載されたドライブレコーダーによって撮影された(ような)長回しのショットだと判るくだりがある。私たちは巧が物語の主人公であることを推し量り、これが作劇であると理解しているからこそ映像の在処を錯誤する。子どもたちが<だるまさんが転んだ>に戯れながら静止する姿を、濱口竜介監督は予め提示しているだけに巧妙なのだ。こういった演出に対して、台詞が伴うことなく映像で表現してみせていることは、国際的な評価を導く由縁のひとつなのだろう。
斯様な普遍性は、本作が描く普遍的な題材とも無縁ではない。例えば、企業の論理を優先するグランピング場施設の建設。地元住民の生活を無視して建設を推進する芸能事務所は、期日内に着工しないと(コロナ禍における)中小企業の補助金が下りないことに焦っている。彼らは、目先の利益や己の私利私欲を優先しているのである。それゆえ、住民説明会の場面で「水は低い所へ流れる、上流の方でやったことは必ず下に影響する」と指摘する地元区長(田村泰二郎)の言葉に、現代社会の構造や政治のあり方に対する批評性が暗喩されていると感じさせるのだ。また、開発によって自然環境が壊されるという懸念だけでなく、人と人との諍いによって生じる不寛容というモチーフは、第35回東京国映画祭でグランプリに輝いたロドリゴ・ソロゴイェン監督の「理想郷」(22)で描かれていたことにも似ている。つまり、本作が描く小さなコミュニティの軋轢や諍いは、世界のどこにいても同じように感じるものだということなのだ。
「悪は存在しない」は、地方回帰を安易に描いたりしないし、巨悪に立ち向かうという類の物語でもない。地元住民に対する思慮が足りないためトラブルになるという、形を変えれば何処でも起こりうる物語なのだ。舞台となる水挽町は、戦後の農地改革で土地を持たない者たちの開拓用に与えられた地域だという設定。ある意味で、みんな“よそ者”だと説明する巧が「まだ誰も賛成でも反対でもない」と諭すように、この映画における<悪>は灰色の存在なのである。誰もが加害者の側にも被害者の側にもなり得るし、誰もが悪の側にも善の側にもなり得る。斯様な灰色の現実世界を描いた映画なのだと解せる。それゆえ、悪は“存在しない”が逆説的な意味を内包していることは言うまでもなく、社会を“灰色”たらしめるのは、悪しきことに対して見て見ぬふりをする、或いは、問題を先送りにする風潮に対して異議を唱えることさえない、私たちの姿勢にその根源があるのではないかと問うている。
(松崎健夫)
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