山口拳矢選手が、別府記念競輪「オランダ王国友好杯」の決勝にのりました。拳矢選手は山口幸二さんの次男ということで、今回は展望ではなく、特別コラムをご執筆いただきました。
『別府競輪開設71周年記念オランダ王国友好杯』も決勝を迎えました。
ここで、ご覧の皆さんにお伝えしたいことがあります。
ご存知のように決勝を走る山口拳矢は私の次男です。息子が走るレースを、父親である私があーだこーだと「レース展望」するとファンの皆さんに誤解を与える恐れがあります。
拳矢が決勝に乗ったレースをお休みするという選択肢もありました。ですが、そこだけシレッと休むことでファンの方には違和感しか残らないのでは? と思いました。
息子が大きな舞台を走れば走るほど展望できないのは、避けて通れない道です。ですから「なぜ展望をしないのか?」を伝えることが真摯に向き合うことだと考えました。
解説者として「レース展望」をお届けしたい気持ちは山々なのですが、ご理解いただきたいと思います。
今回は今の父親の心境を綴りたいと思います。
拳矢はやんちゃな風貌をしていますが、生まれてから発育が遅く保育器に入り、昔なら成人することなかった子でした。
その時に「健康でありますように…」と思って付けた名前が『拳』でした。それほどの虚弱体質だったのに、今は物おじしないキャラとして認知されています。不思議な感じです。
幼少期はどこにでもいる、兄(聖矢・115期)の後ばかり追いかける弟でした。兄と違うのはズル賢い所でした。
小学校低学年の時、空手を習わせていました。ある日、「拳矢くん、最近来てないですけど何かありました?」と空手教室の先生から連絡がありました。
「あれ?おかしいですね。いつも空手着を着て家を出てますけど…。」
となって、後日拳矢を尾けるとなんと「レンタルビデオ屋」さんに行って漫画を立ち読みしていました。
私はそれを聞いた時「小学校低学年で俺にはできないわ」と妙に感心しました。
そんな図々しい面があるかと思うと、当時流行った「ムシキング」のカードゲームを1回1回並んでやり通す真面目な所もありました。
「黙って2回やっても分からんやろ」とそこは思いましたが…。
そんな、真面目なのかそうでないのか分からない拳矢が「競輪選手になりたい」と言い出したのが大学2年生の夏でした。
聖矢が、その年の春から自転車に乗り始め触発されたのだと思います。
乗り始めは体の線が細く「大丈夫かな」と思っていましたが、競輪学校の試験がある秋には聖矢が合格ラインギリギリのタイムを出していたのに対し、拳矢は全く出ていませんでした。
「合格するなら聖矢だろう。拳矢は厳しいかな」と思っていたら、聖矢がダメで、拳矢だけが合格しました。
私は驚きました。その時から、火事場のばか力のようなものを兼ね備えていたのかもしれません。しかし家庭の雰囲気は地獄でした。
そして、晴れて113期で合格したのも束の間、入学3ヶ月余りで「拳矢くんは無期停学となりました」と競輪学校から連絡があります。
青天の霹靂でした。
自宅に帰ってきた拳矢に聞くと「休みの日に外出して遅刻した。怖くて遅刻理由に嘘をついた」のが原因でした。学校は嘘の申告をしたことに対して罰を与えたのだと思います。公営競技に携わる者が一番やってはいけないことでした。
それでも無期停学なので、2、3ヶ月で学校には戻れるだろう…と思っていたのがいつまで経っても戻れない。115期の復学試験にも落ち、前途が見えない中での練習はキツかったと思います。
毎日練習日誌をつけ、毎月学校に提出する。3ヶ月に一度、学校に行ってタイム測定する。そんな生活が117期として復学するまで続きました。
入学式も、拳矢は復学なので別室待機。参加は「入所」にあたってのオリエンテーションからでした。競輪選手になれる資格を再び手にして、今に至ります。
当時、先が見えない中で一本の蜘蛛の糸を垂らしてくれた関係者の皆さん、一緒に練習に付き合ってくれた仲間、いろんな人に助けられて今の拳矢があります。そのことを忘れずに競輪界に恩返しすることこそ、拳矢の役目だと思います。
その第一歩を歩み始めた拳矢を、ファンの皆さんもこれからよろしくお願いします。
父より
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