NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の第42回「離れゆく心」は、明智光秀と織田信長との対立が激化。信長は徳川家康に子・信康と妻・築山殿が武田氏に通じているとし、処分を求めたと光秀に言った。信康・築山殿事件の真相は、いかなるものだったのだろうか。
■第42回「離れゆく心」を振り返って
第42回「離れゆく心」の内容を光秀と家康、信長との関係を中心に振り返っておこう。
備後鞆で足利義昭(役・滝藤賢一さん)と面会した明智光秀(役・長谷川博己さん)は、続いて徳川家康(役・風間俊介さん)と会った。家康は光秀に対して、織田信長(役・染谷将太さん)から嫡男の信康と妻の築山殿を殺すよう命じられたと言う。そして、家康は信長がわずかな手勢で三河へ鷹狩りに来た際、配下の者が「今なら信長を討てる」と言ったことも光秀に話した。その後、光秀は信長と会う。信長も家康に妻子の処分を命じたことを明言したので、光秀は再考を申し出るが、かえって信長は光秀の忠告に不機嫌となる。そして、信長は光秀が正親町天皇(役・坂東玉三郎さん)に会ったことを詰問し、信長の話題が出たのかを問い質そうとした。しかし、光秀は決して言えないと拒んだので、信長は光秀を扇で激しく殴った。
信長は家康に我が子と妻の処分を求めたことになっているが、その真相について深掘りすることにしよう。
■信康・築山殿事件の経過
織田信長にとって徳川家康は、信頼するパートナーだった。しかし、信長が天正7年(1579)8月に家康に妻の築山殿を、同年9月に嫡男の信康を殺させたことは、のちの遺恨になったといわれている。この事件について、少し考えてみよう。次に、事件の経過を示しておく。
天正7年(1579)8月3日、家康は信康のいる岡崎城(愛知県岡崎市)を訪ねると、その翌日に信康は岡崎城を退去し、大浜城(愛知県碧南市)に入った。同年8月29日、家康によって、妻の築山殿は自害に追い込まれた。
その後、信康は堀江城(静岡県浜松市)、さらに二俣城(同)に移され、同年9月15日に切腹を命じられた。その間、家康は家臣らに対して、以後は信康と関わりを持たないという趣旨の起請文を書かせた。信康の首は信長のもとに送られ、返却されてから若宮八幡宮(愛知県岡崎市)に葬られた。こうして、信康・築山殿事件は終結したのである。
■信康・築山殿事件の通説
次に、信康・築山殿事件の通説を確認しておこう。元亀元年(1570)、家康は自身の領国が遠江国にまで拡大したので、信康に家臣を付けたうえで岡崎城の城主とし、三河国の支配を任せた。
つまり、家康は複数国の支配を単独ではなく、子にその一部を担当させたのだ。築山殿は夫の家康と不和だったといわれており、夫の浜松城ではなく信康の居城・岡崎城に留まった。
信康の妻は信長の娘の五徳だったが、五徳は築山殿との折り合いが悪く、出産するのは後継ぎとなる男子ではなく、女子ばかりだった。こうしたことが災いし、天正5年(1577)頃から信康と五徳の関係も冷え切っていたという。
また、天正3年(1575)から信康は甲斐武田氏との合戦に出陣したが、目立った軍功がなかった。信康は武芸に励んだが、一方で些細な理由で人を殺すなど、人格に問題があったと伝わる(『松平記』)。
信康の評価は悪いものが多く、その情報がやがて五徳を通じて信長の耳に入った。五徳の12ヵ条にわたる書状には、五徳と信康が不仲であること、築山殿が武田氏と内通していることなどが書かれていた。
信長は家康に対して、信康と築山殿の処分を要求。家康は信長の意向に逆らえず、泣く泣く指示に従ったというのだ。以上が通説的な見解であり、大河ドラマでは武田氏との内通が原因の一つとして挙がっていた。
■自主的に妻子を殺害した家康
最近の研究では、信康・築山殿事件を徳川家中および政治路線を巡る闘争という観点から読み解いた。つまり、家康と信康・築山殿は対立関係にあったという。そして、家康は路線が異なった信康を廃嫡に止めるのではなく、殺害に及んだ。別に、信長から殺害の指示を受けたわけではない。もう少し具体的に考えてみよう。
天正3年(1575)以降の家康は、織田方の尖兵として対武田氏の攻略に苦心惨憺(さんたん)していた。戦争は長期化し、その経済的負担も大きかった。家臣や領民も同じであろう。
武田氏は、御館の乱(上杉謙信没後の家督争い)の影響もあって、北条氏とも敵対。危機を感じた武田氏は、信長との和睦を模索し、併せて対徳川氏との敵対関係を見直そうとした。武田氏が信康や築山殿に接近したというのは、こうした武田氏の政策転換にあったという。
武田氏と敵対した北条氏は、家康に急接近したので(『静嘉堂文庫集古文書』)、家康は信康と対立したという。家康が武田氏との戦争続行を主張する一方で、信康は武田氏に接近を図ろうと考えていたからだ。徳川の家中は武田氏の扱いを巡って、2つに割れてしまった。
結果、五徳が信長に送った書状の一件が発端となり、天正7年(1579)7月に家康は家臣の酒井忠次らを信長のもとに遣わした。家康が伝えた意向は、信長に従い武田氏との戦いを継続することだった。
そこで、家康自身が信康に真意を問い質した結果、自害を命じたという。その処分は、信康に加担した築山殿に対しても同じだった。つまり、信康と築山殿の処分は、家康の判断に拠るものだったのだ。
信康・築山殿事件は決して信長から強要されて、泣く泣く信康と築山殿に自害を命じたものではない。家康は信長に従って武田氏討伐の決定を堅持し、その方針に反する信康と築山殿が家中分裂の要因、つまり徳川家の崩壊につながると予想し、敢えて信康と築山殿を切った。
通説の家康が信長に命じられて、泣く泣く応じたという説は当たらない。家康による信康・築山殿事件は、あくまで徳川家中の問題だった。今回の大河ドラマ「麒麟がくる」のような解釈は、成り立たないといえるだろう。
【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】
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