「辞表」をめぐる一条天皇と道長の神経戦
大河ドラマ「光る君へ」の第25回「決意」。愛する中宮定子(高畑充希さん)が内裏に隣接する職曹司という身近な生活空間に戻ってきて、一条天皇(塩野瑛久さん)の変容ぶりが目に余る状態になりました。
内裏には碌におらず、定子と一緒にいたいと職曹司に入りびたり。
行成(渡辺大知さん)らが政務のことを報告してもまともに聞いてもらえず、怒り出すほどです。
道長が心配していた鴨川の出水対策は後手後手になり、多くの人が被災しました。道長は自らの力不足を理由に、左大臣の辞表を3度にわたって提出しますが、一条天皇は「朕を導き支える者は、そなたしかいない」と受理しません。
この頃の道長の辞表の提出と不受理は史実通りです。史料上は道長の病気が理由ですが、ドラマの流れは、一条天皇が道長を辞めさせることができない事を見切った上で、辞表の提出を契機に天皇にも自分自身の至らなさを認めさせることで、政権運営の主導権を握ろうとする道長の政治的な駆け引きということでしょう。父の兼家を思わせる巧みな策略です。すっかりタフな政治家の顔です。
生涯にわたり鴨川の洪水と対峙した道長
とはいえ、鴨川の水害は政治の駆け引きの材料どころではなく、この場面の998年(長徳4年)は実際にひどいものでした。藤原行成(渡辺大知さん)の日記『権記』によれば、長雨が続いたことで一条堤が破れ、鴨川の水が道長の屋敷(土御門第)に入ってしまいました。『文化遺産防災学「ことはじめ」篇』(アドスリー刊)によると、この後も道長の生前だけで1000年(長保2年)、1004年(寛弘元年)、1010年(寛弘7年)、1017年(寛仁元年)と、堤の破壊などが記録されており、ドラマにもあったとおり、道長は自ら堤に出向いて巡検を行うこともありました。
道長の時代から少し下ること、院政によって長期にわたり絶大な権力を握った白河法皇(1053‐1129)も度重なる洪水で苦労した人です。『賀茂川ノ水、双六の賽、山法師、是ゾ朕心に随ヌ者』(鴨川の水害、サイコロの目、比叡山延暦寺の僧兵は思うようにならない)という有名な言葉を残しました。日本の歴史に残る2人の強大な権力者ですら、鴨川の治水には苦労し続けたのです。道長にとってリアルに重要な政策課題であった鴨川の問題をモチーフに、天皇との駆け引きを描いたドラマの展開が巧みでした。
「定子のサロン」 清少納言と公任の歌の競演
宮中の冷ややかな視線を浴びつつ、中宮定子の生活空間は以前の華やぎを取り戻してきます。
当代一の知識人、藤原公任(町田啓太さん)も訪れ、得意の笛の音を聴かせてくれました。
ここで話題になったのは公任と清少納言の連歌のやりとり。「枕草子」で紹介されている有名なエピソードです。歌の下句(七、七)を先に示されて、それに相応しい上句(五、七、五)を応えるもので、一種の遊びですが、教養やセンスを問われるだけに応じるほうはプレッシャーがかかります。まして、先に下句を示したのが公任ですから、清少納言としては平凡な返しはできません。結果、このような歌が完成しました。
空が寒いので、花に見間違えるように散ってくる雪に
少し春らしさを感じることです(講談社学術文庫「枕草子(中)」から)
雪模様でまだ「名のみの春」のようですが、その雪を花になぞらえて春の訪れの兆しを感じる、という技巧的な歌が完成しました。さすが清少納言です。そして何と言っても彼女の豊かな教養を感じさせる連歌なのです。
教養としての白楽天
この歌の背景にあるのは白居易(白楽天)の名高い「南秦の雪」という詩です。2人がこの詩を教養として共有していることが、やり取りの前提にあります。
(大意)かつて、よく駱口から南秦への道を通った。あの辺りは春夏秋にも雲は冷たくて、雪が舞うことが多く、二月になっても山は寒くて、春の期間が短い。私はそのころの事を思い出しただけでも悲しくなる。(明治書院「新釈漢文大系 白氏文集 三」から)
清少納言は、公任が与えた下の句「少し春ある心地こそすれ」が、この白楽天の歌の「少有春」=春有ること少なし=を引用したものであることを見抜きました。その上で、自らは1行前の「雲冷多飛雪=雲冷かにして 多く雪を飛ばし」を引用して、雪を花に見立てて上の句「空寒み花にまがえて散る雪に」を創作したわけです。漢詩の知識と、詩作のひらめきの両方が揃ってこそ、の見事な返し。漢詩は貴族階級の男性には必須の知識でしたが、清少納言やまひろのように、女性で漢詩に通じている人は珍しかったのです。このやりとりで周辺が清少納言を激賞したのも当然。彼女の真骨頂と言えましょう。
一方、復権を目指す伊周は「枕草子」の見事な出来栄えに目をつけ、これを宮中に広めることを計画します。清少納言の人生を変え、そしてゆくゆくは日本の文学史に刻まれることになる動きです。「枕草子」の伝播がドラマの中でどのように描かれるのかに注目したいです。
権力者に「民の声を聴け」 まひろの白楽天の学び
一方、宣孝との結婚を控えたまひろも、白楽天の詩を学んでいました。
こちらは「新楽府」です。民衆の歌の形を借りて、時の政治や社会を批判したり風刺したりするものです。以前の回で、まひろは弟の惟規から本を借りて熱心に書写していました。のちに、紫式部が道長の娘、彰子に仕えた際にも、この「新楽府」を彰子に講義しています。よほどお気に入りだった様子が伺えます。
この場面でまひろが読んでいたのは全50編からなる白楽天の「新楽府」の最後を飾る「採詩官」です。どんな内容かといえば、「昔の天子は民間から詩歌を採集し、その歌声に耳を傾け、自らの戒めとした。ところが最近はその仕事を担当する採詩の官は設置されず、天子は媚びへつらう言葉ばかり聞かされている。民情をしかと把握しようとするならば、詩歌に風刺の言葉を求められよ」(明治書院「新釈漢文大系 白氏文集 一」から)といったものです。
「君眼不見門前事」=天子の目には宮城の門の前で起こっている出来事は見えない
宮中から目と鼻の先の鴨川の洪水で、多大な被害が出ました。まひろの家もグチャグチャになってしまいました。当時の社会状況からすれば、上記の一節はそうしたリスクを軽視をした天皇ら為政者への皮肉、という意味合いになるでしょう。白楽天の作品から社会批判の文脈をくみ取ろうとするまひろ。清少納言との違いが興味深く、2人の個性も浮かび上がってくる印象的な場面でした。
「越前和紙」で開眼?紙の表現にこだわった紫式部
まひろは越前で、名産の和紙作りの現場を見学する機会に恵まれました。「読み書き」を愛好するまひろが優れた紙に関心を持つのは、当然のことでしょう。目をらんらんと輝かせるまひろの表情。吉高由里子さんのさすがの演技でした。
この時期の紫式部の暮らしぶりを示す史料はほとんどなく、ドラマのように越前和紙と接点があったかどうかは分かりませんが、のちの「源氏物語」には、紙の色や品質に関わる記述が目立つのです。
あの名高い「雨夜の品定め」(帚木巻)は、「いろいろの紙なる文どもを引き出でて」と、色とりどりの紙に書かれた女性からの恋文がきっかけで始まります。梅枝巻には、「唐の紙のいとすくみたるに」「高麗の紙の、膚こまかに和うなつかしきが」「ここの紙屋の色紙の、色あひはなやかなるに」などと、中国、朝鮮、日本のそれぞれの紙の特徴や書き味を細密に描写する場面もあります。
「日本史を支えてきた和紙の話」(朽見行雄著、草思社刊)では、こうした紫式部の紙に対する言及に注目し、「当時の宮廷人たちの紙に対する繊細な美意識とそれを巧みに表現する紫式部の感性は、改めて紙の持つ美に気づかせてくれる」と指摘しています。その感性は、ドラマのような越前時代の経験で培われたものでは?と想像したくなるシーンでした。
キーパーソン彰子いよいよ表舞台へ 「源氏物語」への道
水害や日食など凶事が続きます。安倍晴明は道長に「災いの根本である帝をいさめ、国が傾くことを防げるのは左大臣しかいない」と伝え、「良いものをお持ちではないですか。お宝を使いなされ」と意味深なメッセージを残します。
その「お宝」とは。「使う」とは。次週、第26回のタイトルが「いけにえの姫」です。ストーリーのキーパーソンになる道長の娘、藤原彰子(見上愛さん)がいよいよ表舞台に登場します。まひろのこれからの人生に大きく関わる彰子。彰子と切っても切り離せない「源氏物語」創作への道筋も徐々に浮かび上がってくるでしょう。ますます目が離せません。
(美術展ナビ編集班 岡部匡志)
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◇「君かたり」に注目
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https://www.nhk.jp/p/hikarukimie/ts/1YM111N6KW/movie/
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2024-06-23 11:45:00Z
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