【よみがえる日英同盟】 今から100年前の1921(大正10)年、日英同盟の廃止が決定し、23(同12)年に失効した。日本の近現代史を振り返るとき、これほど悔やまれる外交政策の失敗はない。 日英同盟―02(明治35)年に締結されたこの同盟は世界を驚かせた。なぜなら、いかなる国とも同盟関係を築かず、栄光ある孤立を続けてきた超大国・大英帝国が初めて選んだ同盟国は、非キリスト教国で非白人国家、東洋の島国・大日本帝国だったからである。 決断の背景には、中国大陸に権益を持つ英国の「アジアでのロシア帝国の南進阻止」と「中国での権益拡大を狙ったドイツ、フランスへの対抗」という思惑があった。英国はヨーロッパで、ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアの独墺伊三国同盟と、ロシア・フランスの露仏同盟に対抗しており、アジアでは南下するロシアの脅威に対峙(たいじ)する必要があったのだ。 そして、日英同盟締結の大きな契機は、清朝末期の動乱「義和団の乱」(1900=明治33=年)における日本軍人の勇猛な戦いぶりとモラルの高さに、英国が魅了されたことがある。 英国は当時、南アフリカのボーア戦争に兵力を投入しており、大陸近郊の日本に大軍派遣を要請した。日本は最終的に2万人の兵力を投入し、北京の公使館員や居留民を保護した。 中でも、柴五郎陸軍中佐の存在が大きかった。 公使館区域で、日本と英国、米国、ロシア、ドイツなどの8カ国が籠城した。総指揮は英国公使クロード・マクドナルドが執ったが、柴中佐は部隊を指揮して勇敢に戦い、その武勇と礼節が大絶賛された。彼が後に駐日英国公使・大使となり、日英同盟を推進したのだ。 もう一つ、英国が日本の海軍力に期待したことも忘れてはならない。 日清戦争(1894~95=明治27~28=年)前後の日本の海軍力は、戦後の下関講和条約後に干渉してきたロシアとフランス、ドイツよりも劣っていた。このため、やむなく遼東半島を清国に返還せざるを得なかった。 臥薪嘗胆―日本は、列強に伍(ご)してゆくために軍事力増強を図り、海軍力を拡充した。日本はすべての戦艦を英国に発注するなど、最終的に日本海軍の主力艦の80%が英国製となった。このことも、日英同盟締結につながった。 英国は、日本の横須賀および呉海軍工廠の乾ドックなど、艦艇を整備できる施設や技術にも注目した。また、日本には軍艦の燃料となる石炭を採掘できる炭鉱があったことも大きなメリットと考えたようだ。 つまり日英同盟は、義和団の乱における日本軍人の立派な振る舞いと、英国の日本海軍への期待から生まれたわけである。 このことは、現代の日米同盟にも当てはまる。 現代の同盟国・米国は、練度が高く規律正しい自衛官と、世界第2位の実力を誇る海上自衛隊、そして横須賀、佐世保などの後方支援施設や高い艦艇整備技術に期待しているのだ。 ■井上和彦(いのうえ・かずひこ) ジャーナリスト。1963年、滋賀県生まれ。法政大学卒。軍事・安全保障・外交問題などをテーマに執筆活動を行うほかテレビ番組のコメンテーターも務める。産経新聞「正論」執筆メンバー。フジサンケイグループ第17回「正論新風賞」受賞。著書に、『日本が戦ってくれて感謝しています』(産経新聞出版)、『日本が感謝された日英同盟』(同)=写真、『親日を巡る旅』(小学館)、『自衛隊さん ありがとう』(双葉社)など多数。
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