<偉大な音楽以外に彼が残したレガシーは、周囲の言うがままに踊らされる有名人から脱却して名声を「道具」にしたことだ。本誌「ジョンのレガシー」特集より>
20世紀における最も革新的なミュージシャンの1人であるジョン・レノンは、名声という渦の中で人生を切り開いたパイオニアでもあった。
名声を追い求め、それについて語り、利用し、一旦は距離を置いたジョンは、最後には肥大した名声にのみ込まれた。その過程で彼は、スターダムとは何なのか、それはどのような影響力を持ち得るかを私たちに教えた。
亡くなる3日前、ジョンは妻ヨーコと共にローリングストーン誌のインタビューに応じ、「僕らの人生は僕らのアートだ」と語っていた。リアリティー番組以前の時代には新しい考え方だった。だが人生とアートの境目が本当に希薄になった今こそ、ジョンの名声との付き合い方がもたらした教訓は再検討する価値がある。
若き日のジョンはリバプールやハンブルクの汚い楽屋で、ビートルズの他のメンバーをあおったものだ。「俺たちが目指すのはどこだ?」とジョンが問い掛け、ポールとジョージとリンゴが「ポップス界のてっぺんだ!」と応える。これを2年ばかり続けた頃、彼らは本当にてっぺんを極めた。
スターダムの大きな渦に巻き込まれたジョンにとって、皮肉は身を守る手段だった。同時にそれは、彼の魅力の源泉となった。ジョンは当初から自らの名声を、一歩引いたところから面白がって観察していた。自分が体現することになった新しい形のヒステリックなスターダムを斜めから見て分析を加え、冷笑するような面があった。
1963年11月、英王室のメンバーが臨席するチャリティーイベント「ロイヤル・バラエティー・パフォーマンス」に呼ばれると、ジョンはもちろん承諾した。
しかし大げさなおじきをしたり、最後の曲の前にこんな皮肉を言うことも忘れなかった。「安い席の皆さんは手拍子を。残りの方々は、宝石をじゃらじゃら鳴らしてください」
翌64 年2月にビートルズがアメリカに初上陸したとき、ニューヨークのケネディ国際空港で行った記者会見でも同じだった。ジョンが終始リードしたこの会見は、自己宣伝への皮肉に満ちていた。
記者「何か歌ってくれませんか」
ジョン「先にお金をもらえる?」
記者「なぜこんなに人気が出たと思いますか」
ジョン「それが分かっていたら、別のバンドを作ってマネジャーをやってるさ」
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