Sunday, December 27, 2020

「尽誠学園のバスケットをやりきった」…兄の遺志を引き継いだ“背番号77”松尾河秋 - バスケットボールキング

兄と同じ背番号77をまといウインターカップで戦った松尾河秋 [写真]=日本バスケットボール協会

本格的に取材を始めたのが「仙台の奇跡」と称された2004年アテネ五輪アジア予選。その後は女子バスケをメインに中学、高校と取材のフィールドを広げて、精力的に取材活動を行っている。

「勝つことはできなかったけど、自分のやるべきことはしっかりできたのかなって思います」。声を震わせながら、そう言い切った姿はきっとお兄さんにも届いているだろう。

「SoftBank ウインターカップ2020 令和2年度 第73回全国高等学校バスケットボール選手権大会」の男子準々決勝、尽誠学園高校(香川)は北陸高校(福井)に81-86で敗れた。8大会ぶりのベスト4にはあと一歩届かなかった。

 尽誠学園は、サイズのある留学生と精度の高いシューターのいる北陸に対して「留学生に対しては人数を増やして、シューターに対しては運動量を増やしてという対策をした」と松尾河秋は振り返る。

「留学生のディフェンスで少し我慢ができなかったり、外のシュートに対しても自分たちのプレーを徹底できなかったところがファウルにつながって、3ポイントシュートのバスケットカウントだったり、留学生に対してのファウルにつながったのかなと思います」

 追い上げても、追い上げても、あと一歩のところで押し返されてしまうのは、そんなところに原因があったというわけである。

 それでも色摩拓也コーチが認めるとおり、選手たちはサイズで劣りながらも、細かく、バスケットIQをフルに使ったバスケットを、戦う気持ちを前面に押し出しながら、最後まで貫いた。これが脈々と続く尽誠学園のバスケットである。松尾の長兄、季風さんもそうしていたように――。

 季風さんは松山市立拓南中学3年生のとき、埼玉全中に出場し、準決勝で富山市立奥田中学の八村塁とマッチアップした。その後、尽誠学園に進み、インターハイやウインターカップにも出場。しかし今から3年前、河秋が中学3年生のとき、出勤途中に交通事故に遭い、その短い生涯を閉じている。享年19。

 松尾がつけている「77」という背番号はその兄がつけていた番号である。愛する兄の番号を背負って戦ったことを松尾はこう語っている。

「自分の兄がつけていた77番は自分にとってすごく特別で、自分がやらなければいけないという気持ちになりますし、この番号をつけている以上は不甲斐ないプレーはできないので、しっかり胸を張って、自分の番号が兄もつけていた77番だと示そうと思って、戦っていました」

松尾は「この番号をつけている以上は不甲斐ないプレーはできない」と話した [写真提供]=日本バスケットボール協会


 もし北陸戦に勝っていれば、兄が中学時代に戦った八村の母校と対戦することになる。そんな思いも、もしかしたら松尾の胸中にはあったかもしれない。結果としてそれは叶わなかったが、松尾は胸を張って天国の兄に、自分のやるべきこと、尽誠学園のバスケットをやりきったと報告できるだろう。

 その証拠が最後のドライブ――第4クォーターも残り1分を切って、6点のビハインド。疲れからアタックの回数が明らかに減っていた松尾がねじ込んだドライブに見て取れる。“77番”の意地と誇りがハッキリ見えた、力強いドライブだった。

文=三上太

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