今年、遠藤周作さんの未発表の小説「影に対して」が発見された。母への愛に満ちたこの小説は、なぜ発表されることがなかったのだろう。
まもなくして、この小説が美しい本になった。他に6編の小説が収録された。「影に対して」と同じように、どの作中にも母が登場する。昭和41年から54年にかけて、文芸誌に発表されたものだった。それを読むと、遠藤さんのすべての出会いは母からきていたことがわかる。神も人も、そうなのだった。
それにしても、男の子はどうしてこんなにも深く母親を愛するものなのか。女の子の場合、同性の母を甘く、軽くみるところがある。私の母は晩年よく、「男の子は、優しい。あなたが男の子だったら、どんなに私に優しかったことでしょう」と嘆いていた。この本を読んで、本当にそうなのだと思った。母への深い敬慕の念は、とてもまぶしいものに感じられた。
「影に対して」の主人公は、一人っ子に設定されている。母との関係は、一層濃密になる。教師の父は、「平凡が一番いい、一番幸福だ」と考える人だった。子供の世話よりも繰り返し、繰り返し激しくバイオリンを弾き続ける芸術家の母とでは、結婚生活が続くはずがなかった。離婚した母についていかなかったことを、大人になってからも彼は苦しみ続ける。
「母は私にとって必ずしもやさしい女ではなかった」と遠藤さんは書く。子供がおなかをすかしていても、母はバイオリンの練習をやめようとしなかった。練習中に話しかけて、雪の中に立つようにいわれたことが、「影に対して」の中に出てくる。それでも、決して母を恨んだりしない。彼は、自分以外の者が母を批判するのは許せなかった。5本の指が、過酷な練習のあまり潰(つぶ)れて、硬い皮のように変色していたのが忘れられなかった。「自分しかできないと思うことを見つけて頂戴」。その母の一言が、やがて主人公を小説家の道に歩ませることになる。
遠藤さんには、子供の頃からいつも母とそっと二人きりでいたいという願望があったように思う。その熱い思いが、この母の小説を手許(てもと)に置くことになったのかもしれない。(新潮社・1600円+税)
評・太田治子(作家)
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