
◆よみがえったロシアの原石 最近めざましいロシア文学の「古典新訳」の機運の中で、一人言わば取り残されたようになっていた文学者がいる。レールモントフだ。彼は十九世紀初頭に、プーシキンを継いで現れた反逆精神たくましいロマン派的な気質の詩人だが、小説家としても『現代の英雄』一作でロシア近代小説の決定的な出発点を築いた。評者自身今回の清新な訳で久しぶりに再読して痛感したのだが、小振りな小説ながら、精緻な文体によって語られる物語は魅力的で、図体が大きいだけに冗長になるきらいもあるドストエフスキーやトルストイの怪物的長編に比べても、文学的な価値において引けをとらない。 『現代の英雄』には、本書の主人公ペチョーリン自身が書いた手記から「タマーニ」「公爵令嬢メリー」「運命論者」の三編の他に、語り手の「私」と、ペチョーリンのかつての同僚による語りが交錯し、全五編からなる連作短編集となっている。そのすべての中心にいて、圧倒的な存在感を示しているのがペチョーリンという謎めいた人物だ。 彼は二十代半ばの美青年の将校で、首都での華やかな社交生活も経験しているはずだが、若くしてすでにすべてに退屈し切っている。過去に何があったのか明かされないのだが、何らかの重大な問題を引き起こしたらしく、現地住民との戦闘が続く危険なカフカスに配転されてくる。そして、ため息が出るほど美しく描写される大自然を背景に、ペチョーリンの言動が描かれていく。 彼はチェルケス人の豪族の美しい娘ベラを非道なやりかたでかどわかし、気に食わない旧知の友人グルシニツキーを愚弄するために、計算ずくで公爵令嬢メリーの自分に対する恋心を空しく燃え上がらせ、挙句の果てには決闘でグルシニツキーを殺してしまう。悪の限りを尽くす、救いようのない「悪魔的」な男だが、彼はその一方で、犀利(さいり)に人間心理を洞察し、社交界の偽善と愚かさを見抜く知性の持ち主でもある。世の中に居場所を見つけられず、自分の才能を無駄にして滅びる「余計者」と呼ばれる人物がロシア文学にはしばしば登場するが、その原点の一つがペチョーリンだった。 じつはレールモントフ自身も『現代の英雄』を書きあげたすぐ後に、自ら決闘で殺されてしまう運命だった。まだ二十七歳の若さである。ロシアでは早世した天才は少なくないが、その中でも飛びぬけて若い。作者自身が小説の主人公の生き方を地で行く伝説的人物だった。レールモントフはこの一冊において、トルストイの卓越した自然描写と人間心理の分析、ドストエフスキーの底知れぬ悪の探求、そしてチェーホフの明晰でしなやかな文体のすべてを先取りしている。『現代の英雄』はロシア文学という巨大な宝石箱の隅に納められた原石なのだ。 新進気鋭のロシア文学者高橋氏は、若々しい現代的な感覚と、古風な語彙を使いこなせる文学的素養の両方を生かして、この作品の新訳に取り組んだ。日本語でペチョーリンとグルシニツキーに「貴様」と呼び合わせようなどという卓抜な発想は、なかなか出てくるものではない。その結果、ペチョーリンは現代日本に見事によみがえった。『現代の英雄』とは、言葉を換えれば、時を超えた「いまどきの主役(ヒーロー)」なのである。 [書き手] 沼野 充義 1954年東京生まれ。東京大学卒、ハーバード大学スラヴ語学文学科に学ぶ。2020年7月現在、名古屋外国語大副学長。2002年、『徹夜の塊 亡命文学論』(作品社)でサントリー学芸賞、2004年、『ユートピア文学論』(作品社)で読売文学賞評論・伝記賞を受賞。著書に『屋根の上のバイリンガル』(白水社)、『ユートピアへの手紙』(河出書房新社)、訳書に『賜物』(河出書房新社)、『ナボコフ全短篇』(共訳、作品社)、スタニスワフ・レム『ソラリス』(国書刊行会)、シンボルスカ『終わりと始まり』(未知谷)など。 [書籍情報]『現代の英雄』 著者:レールモントフ,ミハイル・ユーリエヴィチ / 翻訳:高橋 知之 / 出版社:光文社 / 発売日:2020年10月8日 / ISBN:4334754333 毎日新聞 2020年11月28日掲載
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